昭和45年1月12日 朝の御理解 (末永信太郎) №45-005
御理解第八十節
年よりを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。皆、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしている道理であるから、年よりを敬うのぞ。若い者でも、役に立つ人は何となく人が敬うようになるが、不都合不行き届きがかさなれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。
これは、信心する者の心がけ。信心をさせて頂く者の心がけを、まあ、具体的に教えておられるんだと思いますね。信心させて頂く者は、やはり神様との交流を図るというか、願うというか。ね。神様のお徳を受けたい、と。神の愛を受けたい、と。そういう願いから、やはり皆、信心するのでございますよね。ですから、その神様の心にかなう、この生き方、在り方というものが求められるわけです。その神様はですね、年よりを大事にするような心がけの人、そういう心持ちなん。
ね、そういう心がけ、そういう心持ちを神様が喜んで下さる。これは、私が頂いておる御教えにも、年より子供を大切にする人は、神様に好かれる心だという御教えを頂いたことがあります。ね。非常に、子供好きな人がありますね、子供好き。ね。そういう心はね、その、神様に好かれるです。ね。たとえば、その、年よりを大事にしなければならんことは分かっておりながら、なかなか大事にしません。ね。
結婚の条件でも、最近はその、婆抜きとか爺抜きとかって言うわけです。年よりがおっちゃうるさい、年寄りがおっちゃ、その、まあ、手を取るというか。ね。年よりは手を取りますから、面倒臭い。誰でも、一遍は年をとらなきゃならんのだし、しかも、銘々が長生きを願っておるのですからね。本当に、考えただけでも分かるのですけれども。いわゆる、年よりを粗末にする、大事にしない人が多い、と。
ね、そういう、その心では、神様にかよわない。いわば、年より子供を大切にする人が神様に好かれるなら、ね、それの反対の人は、神様に好かれんぞということを、私は教えておられるんだと、こう思うですね。年よりを大切にせよということじゃない。年寄りを大切にする心をつくれ、ということなのでしょうね。
でないと、せっかく信心しておっても、年より子供を、たとえば疎かにするような心がけではですね、神様と交流しないのです。だんだん、お互い信心をさせて頂くことによって、神心が強うなって参ります。ね。ですから、本当に強うなって参りますと、そこに弱い者、力のない者に対するところの神心が動きます。やはり、年より子供は、力がない。ね。
それに対する、その思いというものが、かえって募る。ですから、結局、年より子供を大事にする、大事にするという人は、やはり子供からも慕われますし、年寄りからも慕われる。ですから、言うなら年より子供に好かれる人にならなきゃならんということになりますね。年より子供を大事にする、その心の反対は、年寄り子供に好かれる人。そういう人がです、そういう心を土台にして、信心の様々な修行。または、教えを受けて参りますと、いよいよ間違いのない信心が育ってまいります。
年より子供に好かれないような人が、いくら、ばたばた信心のけいこをしたところで、そこの根本のところが間違うとる。ね。私は昔から、その、年よりに好かれるんです。それは、やっぱり私が年よりを大事にするからだと思うんです。私は本当にね、それが実感です。ここで敬親会なんかん時、まあ、おばあさん達がたくさん集まられますけれども、必ず、まあ、一緒に入らせて頂いて、おばあさん達の話を聞いたり、話をさせて頂いたり。
まあ、親先生にお見えにかからんなら帰られんちゅうぐらいに、皆さんが言うて下さる。ね。それがですね、大事にすることがどうこうじゃなくて、するその心がね、神様に通うのです。ですから私どもは、年より子供に好かれる私達にならなきゃいけませんよ。夕べ御祈念中に、電話がかかって来よった。電話がかかってきて、こちらがかけたらしいんです、妹が、豊美のところに。
たった、まだ二ヶ月ぐらいだけれども、本当に言葉使いでも優しゅうなっとるち言うてから、申しよりましたが。今ね、おじいちゃまが、その、豊美豊美と言うて、一生懸命お呼びよるなさるとこじゃった。それが今、その、皆家族中で、テレビの前でお芝居が始まったから、早く豊美おらんかと言いよんなさるとこだったらしい。芝居があの人が好きですから、その、おじいちゃまが、その、芝居がありよるから早う来いというところへ、こっちから電話がかかったと言うのである。
あちらへ参ります時に、もうとにかく、年よりが大事にしてもらいたいというのが、あちらの願いであったし、また豊美もおじいちゃんに行くような気持ちで、一番はじまり言うくらいでしたですからね。ですから、その、まあ、おかげを頂いておる模様が、まあ、その、電話を通して聞かせてもろうたところによると、まあ、年よりを大事にし、また、年よりから大事にされておるような状態を感じました。
ね、ですから、いくら私は年よりを大事にしよると言うてもですね、心で大事にしよらん人は、絶対年寄りから好かれんです。年寄りから好かれる人にならにゃいけませんよ、だから。年寄りから好かれるということは、あなたが年寄りを大事にしておるということなんです。
ね、そういう心がけにね、ならんと信心させて頂く者はおかげにならんと仰るのですよ。ね。もう、私はあの、年をとった方達、もう、シワだらけになっとる、私はあれを見るとですね、もう、その手を握ってから、こうこうやってから、何かさすってやりたいような衝動を感ずるです、私はいつも。このシワがずいぶん、世のお役に立って見えたんだ。ね。(しわがればばあ?)とか、梅干婆とかち言うちから、まあ、悪口どん言うごたることでは、だから、神様には好かれん。
もう、子供達が年寄りのことを粗末どんにしよったら、もう、普通は優しいお母さんが、もう、かんかんになって怒るようなお母さんでなかにゃ駄目です。年寄りを何と思うとるかと言うて、いうような、私は教育が今ごろ欠けておるのじゃないだろうか。平気で、それこそ爺抜きの婆抜きのといったようなことを言うような時代、その世相。
金光様の御信心がいよいよ浸透して行かなければいけないなと思いますね。なぜって、自分達も、どうせ、長生きを願ってるでしょうもん。もう、いっちょ人から嫌われん内に死なにゃち、口では言いよるけれども、長生きしたいのですからね。長生きしなければならんなら、自分が長生きした時にやっぱり大事にされる、いわゆる元を今作っておかなければ駄目だ、と。
私の母なんかは、もう、これはもう、徹底、年寄りを大事にしました。八十になるおばあさんが、私どんには二人ありました。弟と妹が、その、一人ずつ、私のおばあちゃんと私のおばあちゃんという風に二人。家の婆の妹がかかって来とりました。もう、それこそ、年寄りっちゃあげん大事にせんならんもんだろうかちゅうぐらいに、母は大事にしました。
長く寝ておりましたが、もう、本当もう、お酒が好きでしたから、こう、(ごしゃく)ずつぐらい、夕方お神酒を持って行ってやるんです。もう、大変それを喜んでおる、目にすがっとります。ね。九十、それから八十いくつで二人とも亡くなりましたが、もう本当に、あの忙しい中に、よう大事に行き届いた、大事にした、まあ、それこそ、近所で評判するぐらいに大事にしました。
婆の妹になる人、その、嫁さんが大変、その、言うなら婆いじめをする人でございましてね。それで、家に出て見えられた訳です。ですから、家で、母が最後まで見とりました。ね。ですから、やっぱり現在大事にされると思いますね。もう、あの、年寄り達の部屋に行ってごらんなさい。もう、いつも神饌室にはないようなものが、いつもありますよ。
甘い物、辛い物、誰かが持って行って。私は一つも持って行かない。けれども、誰かがおかげを、やっぱり、おばあちゃんに、おじいちゃんにと言うて、こう持って行って下さってある。はあ、いつも座布団が変わっておる。毛布が来てる、かけ布団が来とるというような、とても使い切る段のこっじゃないほどしにおかげを受けておる、みんなに大事にされる。
いや、それは神様に大事にされておる。それは、大事にしておったからなのですよ、やはり。ね。だから、その大事にせろじゃないけどね、させて頂くその心がけ、その心が神様に通うのです。ですから、年寄りを大事にするというだけではなくて、年寄りから好かれる私にならにゃいけん。通うです、必ず。形だけでしたっちゃ通わんです。ね。
心から大事にさせてもらうから、心から年寄りに慕われる、好かれる私達にならせて頂かなきゃならん、というような、私はこの八十節では教えてあると思うのですけれどもね。だから、年寄りを敬うのぞというところは、そこまで。それからです、ね、若い者でも、役に立つ人は、何となく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるが良い、とここは若い者に対する不都合不行き届きが重なればということ。ね。
先だってから、あの、選挙の時でも、もう本当に今度はこの人には、どうでん上がってもらわんならんという世の同乗もありながらです、落選の(おきま?)を見ておるという人がありましょうが。ね。それが、ある不祥事があったからなんです。いわゆる、不都合、不行き届きがあったからです。もう、いわば信用を落としたのです。ね。
私は、信心させて頂く者は、よう心がけておるが良いと仰る。不都合、不行き届きが、はあ、あの人はと思いよったけども、たった、ね、一言、人の信用を落としてしまうようなことがあった為に、もう取り返しがつかない、一生。不都合、不行き届きがあってはですね、そこでですね、その不都合、不行き届きの元になるものは何か、と。
京都へお出でられた方は、まあ、みんな一遍は行かれる所がありますね、竜安寺というお寺があります、石庭で有名なところ。あそこのお手洗いの石にね、丸い円形のお手洗いの石があります。それにね、「吾唯足るを知る」と彫ってあります。それが、こういうことで、半呪文のようにして彫ってあるです。口という字が、ちょうど水が溜まるところになってるです。だから、吾という字の下に口を書くと、吾という字でしょう。左側に書くと、唯ということになる。右側に書くと知るということになる。下にこう書くと、足という字、足るという字になる。それを、「吾唯足るを知る」と読ませるわけです。
お手を洗いながらです、吾唯を知る。不平がない、不足がない。ね。今日、只今このようにあるということに、何の不足も持たないというわけなんです。ね。ですから、これはその、まあ、仏教的に言うと、その、諦めといったようなことがありますが、諦めとよく間違える人がありますようですね。だから、諦めではないです、あってはいけません。ね。
これは私の頂いておるのに、中にも、それによく似たのがありますよね。「欲しいとも思わぬ雨だれの音を聞く」と言うのです。はあ、こうやって雨だれのおてり、まあ、お茶ども頂きながらね、言うなら。雨だれの音を聞きながら、本当に今考えてみると、自分な何も、あれが欲しい、これが欲しいという物はないほどに、おかげを受けておるなあ、ということなんです。お腹がすかすかしておったらです、人間ですから、ああ、食べたいと思うでしょう。寒いのに、着物が薄いなら、はあ、(あたえれ?)の一枚も着たいと思うでしょう。けれども、暑くも感じん、寒くも感じん、ひもじいとも乾くとも思わない、そこに、雨だれの音と言うですかね。本当に、自分なおかげを頂いておる、何も、あれが欲しい、これが欲しいと思わんで済むほどしに、おかげを受けておるということなんです。
だから、吾唯足るを知るということは、その、諦めるということではないのです。諦めるというんじゃなくて、そういう心の状態になればね、足ろうて来るということ。必要なものは必要に応じて、ちゃんと頂けてくる。いわゆる、(炊くほどは、風が持ってくるこの葉かな?)である。ね、そういう境地を、私は言うたんだと、こう思います。ね。
私、人間の不都合、不行き届きというのは、絶対この我情我欲だと思いますね、その元は。だから、不都合、不行き届きがあっちゃならんと、例えば心がけるという前にです、まず、何と言うても、自分の我情我欲をね、まず外すけいこ。そこで、私は有り難いと思うことはです、我情我欲があるからこそ、金光様の御信心して、朝参りも、寒修行でもしよるとということにもなる訳ですよね。
今度の寒修行で一修行させてもろうて、一徳を受けて、おかげを受けよう、と。ね。信心は、やはり、ほとんどの人がそこから始まります。ね。そして、いわゆる、自分がいわゆる修行体とでも申しますかね。もう、いわゆる、信心の教えを身をもって、御神訓の中に、信心する人は、常に守りを心にかけておれよ、という御神訓がありますね。信心する人は、常に守りを心にかけておれい。
心にかける守りは汚れうるということは、なきものぞと、また次に教えておられます。ね。ですから、私どもの願いを立てて、どうぞこうでありますように、ああでありますようにと願いを立てる。ね。ところがね、信心を頂いておりますとね、本当に信心の道を、いわば昨日の御理解じゃ、真の見やすいところから立たせて頂いてです、ね、真の道に出らせて頂いてです、また、そのことの精進をさせて頂いておりますとですね、今まで願って行っておったことが、段々薄うなって、無くなってくるです。
だから、神様の願いがそこにあるのです。我情我欲をはなれてと、こう仰る。真の道をはっきりそこに知れよ、と。わが身は神徳の中に生かされてある。吾唯足るを知るというほどしのおかげ。欲しいとも思わんという状態。そういう状態に人間がならせて頂く時、初めて人間の幸せがあるんです。自分の我情が我欲が満たされた。自分の願いがかのうた。はあ、おかげを蒙りました、ありがとうございましたと言う間は、だから、その、一つの過程。ね。
今日は、信心させて頂く者の、いわゆる心がけを、年寄りを大切にするような心がけ。言うならば、年寄りから、また慕われ、大切にされるような私達にならせて頂く。そういう心の状態をまず作れと言うのである、心がけとして。ね。そういう心の状態でです、不都合、不行き届きがあってはならんという精進。そこで、私どもの一日を振り返ってみると、あれも不都合であった、あれも不行き届きであったと思うことが、いっぱしなのだ。
その不都合、不行き届きをよくよく分析してみるとです、結局、我情が我欲がその不都合、不行き届きになっておるという事に、思いが至ってまいります。そこで、不都合、不行き届きということがね、ない、いわゆる心がけを作っていき、またおかげを頂いて行くためにです、まず、自分の我情我欲というものを外していく。だから、我情がたくさんある、我欲がたくさんある。欲が大きければ大きいほど、だから、おかげが大きいんです。
ね、それは、欲が大きいから大きいのじゃなくて、信心させて頂く者は、その大きい欲に取り組むのですから、信心は。私は、もう誰よりも欲が深い。その大きな欲に取り組むのですから。私は人よりも情が深い。その我情に取り組むのですから、誰よりも余計に修行が出けることになるでしょう。ね。めぐりが大きければ大きいほど、おかげが大きいと言われるのも、そういうところにあるのです。
だから決して、我情が我欲がね、で、いわば、身を苦しめておる、心を苦しめておる人ほど、実を言うたら、大きなおかげが受けられるという事になるのです。ね。そして、その我情我欲に取り組んで、そこから真の道を見出そうとする精進。信心する者は良う心がけておくがよい、と。ね。
だから、ここんところのね、いわゆる心がけ。不都合、不行き届きが信心させて頂きよって、ね、信心しよって、あの人はああいうことをせらっしゃった。ほんに、あの人ばっかりは見損なうたというような事がないような。ね。人間だからあります、様々な我情が我欲がありますけれども。ね、それでは、お道を怪我す。それでは、金光様の名折れになるといったような、浅い考えではなくてです。ね。
根本的に、ね、神様がそのくらいなことで顔を汚しなさったり、ね、道を怪我す。そんなつまらん道じゃないて、金光道という道は。また、私どもが拝んでおる神様という神様は、そんなちっぽけな神様じゃない。けれども、私どん人間である以上はです、やはり、ね、誰しも人間が認めてくれれる私どもにならなきゃならんことは、間違いないです。人道を離れちゃならんです。
ね、それが神様のお粗末御無礼になるちゅうことはない。ね。たとえば、政治家の方達がですね、賄賂をとったとか、たくさん金をがばっと、その私腹を肥やしたとかと。そういうことは、信心ではです、問題じゃないです。けれどもです、それが、ほら、元で、ね、もう世の人たちの同乗も買いながらです、それがあるばっかりに人の信用を落としておるから、立ち行きが出けんでしょうが。
本当は当選しなければならないはずの人がです、たった、そのことがあった為にです、ね、不都合、不行き届きがあった為にです、神様に責められとるとじゃないけれども、私どもは人間の世界に住み、人間である以上です、そういう人間の道を踏み外してはならんということなんだ。これは、取り返しがつかんのだから。ね。人が敬うてくれんようになる。あの人は、と思うておった人が、こういうことを仕出かして。
と、いうことになったらです、ね。だから、そういう事であってはならんと、そこば、ただ精進するだけではですね、大変難しいことになりますから、まず、何と言うても、不都合、不行き届きの元が我情我欲であるということが分かったんだから。その我情我欲に本気で取り組んでの、そこから真の道を、私どもは探し求めていかなければならない。ね。
その我情が我欲が、大きいなら大きいほど、私どもは大きな修行に取り組ませて頂くとですから、大きな徳も力も、またおかげも受けられるということが言えるわけです。ね。その、私は根底になるものは、ね、年寄りに好かれるような私になる、と。そういう心がけ。ね。
大切にするというてね、形だけじゃ分からんです。ね。私は年寄り、子に大切にしよりますち言うたっちゃ、もう、その人が年寄りから慕われないならですね、あんたんがつは、ほんな形だけということになるのですよ。ね、ですから、私はここんところを、年寄りから慕われる、年寄りから好かれる息子にならなきゃならん、嫁にならなきゃならんて。
ね、そういう心がけ。だから、信心させて頂く者の心がけ。これは、心がけですよ、信心じゃないです。例えば言うならばです、不都合、不行き届きなことがあってもです、神様はそれを責めたまうほどしの小さい神様じゃないて、神様は。けれども、人間である以上です、その不都合、不行き届きがあっては、信用を落とすということ。
人間の世界に生きていく以上、人間の信用を落としたら、もう、取り返しがつかないということ。ね。そうして、そういう大きな我情に我欲に取り組んでです、私どもは信心させて頂くうちに、ね、真の道が段々分かってきて、今まで願っておった、何ち言うですかね。お金が欲しいと思うた、健康になりたいと思うた。様々な問題、難儀というものから解脱したい、また開放されたいと、こう思うた。
そのために、一生懸命信心修行させて頂きよったら、お道の信心修行というのは、どこまでも話を聞いて助かるという道なのだから、話を聞かせて頂きよったら、自分の我情我欲の、いわば浅ましさとか大きさに驚くほど。その驚くほどのその心に取り組んで行こうと言うんです。
そこに、心に守りをかけておかなければならんと言われるのは、そこなのである。いつ我情我欲が出てくるやら分からん。そこに、守りをかけておかなければいけん。ね。そこからですね、諦めではない、吾唯足るを知るというほどしのおかげ。もう、そこには願うおかげではなくて、ね、恵まれる、与えられるおかげなのである。それは、自分の願い以上のものであり、または、自分の夢にも思わなかったおかげであることでなからなければなりません。
ただ、吾唯足るを知るということがですね、もう、どうせ頂けんとじゃけん、もう諦めた、と。もう、だから不平不足を言わんでというような浅い意味のものではなくて、確かに、吾唯足るを知るということが、本当の意味において分からせて頂いたら、ね、欲しいとも思わん。ただ、雨だれの音を聞くという天地自然の中に自分の心が溶け込んで行くほどしの心の状態がそこに生まれたなら、そこには絶対、欲しいとは思わんけれども、喉が乾いておる時にはお水が、お腹が空いておる時には食べ物が、寒い時には着物が、と。
ね、だから、いよいよ、ね、吾唯足るを知る、ただ、あるものは感謝だけ、喜びだけ。そこに、尽きぬ限りないおかげが約束される。そういう世界を目指して、お互いは信心するのである。言うならば、我情我欲に取り組むことのけいこなん、金光様の御信心とは。だから、我情我欲を離れて、と。ね。そこに、真の道を発見する。ね。
今日はどうぞ、一つ自分達の在り方っていうものを、一つ、多いに反省してみてですね、はたしてその、今日の心がけと仰るその根本のところをね、年寄りを大切にせよという、大切にするというようなことは、もう、神様は喜ばれるというか、神様がお好きになる心なんだ。だから、そういう心であるかどうか。
ある証拠に、私は年寄りから大事にされる、年寄りに慕われる。私は大抵、大事にしよるごたるばってん、年寄りからはあんまり大事に、煙たがれるというならです、まだあなたのは本当なものじゃない。いわゆる、信心の根本の心がけが、すでに間違っておるんだと悟らせてもらってですね、そこんところに一つ取り組んで、おかげを頂いてほしいと思いますね。どうぞ。